俳優座『ある馬の物語』感想(その2/3)   

二十歳過ぎぐらいの若いときに観ていたら、この話、辛く感じたかもしれないが、今の私には、さほど辛くは思われない。次々と起きる不条理で取り返しのつかない出来事、自分の一番大切にしているものを永遠に奪われる、差別、迫害、蔑視、一生つながれて使役される、物として扱われ強い者に屈辱を与えられる。走って走って走り続けて自分で走ってるのか走らされてるのかすらわからなくてその先に待ち受けていたものは。年老いて見えてくるもの。

こういったことは、程度の差はあっても(ホルストメールほど極端でなくても)生きていく上で経験することである。これが人が生きていくということだというのが、辛くはなく、とてもしたわしいものに感じられた。これが人が生きるということだという感覚、額縁の向こうに起きていることでなく自分のことでもあるという感覚。

泣いて客席から逃げ出したいほど辛いと感じない。人の人生とは程度の差はあれこのようなものだ、ということにとても厳かなものがある。(甘い世間知らずの私がそういうことを言えたもんではないんですけども。)眞鍋さんの演出の繊細さはもちろんあるが、余りに辛すぎて直視できないことだとは感じないのは、小山さんの、あの何とも言えない心引き付けられる愛嬌や軽やかさによるところも大きいと思う。希望を感じることができるのだ。

金属の棒が男性原理ですね。強い力、破壊する、冷たさ、残酷さ。真っ直ぐ一方向にしか進まない時間。元には戻れないんだよ、絶対にという。でも、あの棒、私はそんなにきついもの、人間をどんどん追い込んでいくようなものには感じなかったのですよ。冷たい金属なんだけど、どこなく愛嬌があったし、美しかったと思う。棒に愛嬌というのも変だけど。女性原理を担っていたのが照明ですね。やわらかく包む、つなげる、過去も現在も、朝も昼も夜も自由自在にいろんな時間を出現させる、魔法のように。一度光が消えて暗闇になっても、また元にもどることができる。また明るくなれる。

小山さんのダンスやマイムで表現された場面のことを書かないのは、あれこそもう記述不能なすばらしさ。

私は言葉人間で、かつ、どちらかというと聴覚型なんですけど、この公演ほど、プロの俳優さんの人間の生身の身体がここまですごいことができることに目を奪われたことはなかった。

とてももろく弱い人間の身体。何十年だけの限りある生、身体。そのもろくはかない身体でもって、ああいう身体表現を共同して創っていかれることこそが、人間を襲うこの世の不条理さに対する抵抗であり、意地であり、祈りであるような気がした。小山さんの何度も大きくしたたり落ちた汗。

生まれたての仔馬のとこも、殺された後、もう一度馬の生を再現するところも、ほんとに目を奪われましたよねえ。

一番好きなシーン。手綱が先か、馬が先か、で歌い踊る場面が好きです。その前の公爵、フェオファーン、ホルストメールのやりところの所からず~っと好きですねー!よどんで止まるところがどこにもない、明るい表情、明るい声で回想し、どんどん前へ前へ行くあの感じ。フェオファーンと足の高さを揃えて歩いて、スピード上げて舞台上を走る走る。ハーイ、ハーイ、ハーイ、ハーイという声が今も耳について離れない。まさに目と耳を奪われます。

幸せだった時代。千秋楽の日は、もうこれで最後と思い、次やで、次やで、来るでー!と思いながら観て、歌と踊りのあのシーンを拝見しているときが一番泣きました。「私は手綱をぴんと張り」というところも好きだったなあ。その前の「でもそれだからこそ、私は彼を愛しました。彼がハンサムで、幸福で、金持ちで、そのために誰をも愛さない、そういうところが私の気に入りました。(略)彼が冷淡で、残酷で、そして私は彼のもの、そのためにこそ私はよけい彼を愛したのです。私を打って、走らせて、それであなたのいい時代がますます幸せになるならどうぞ、そう私は思ったのです。」たたみかけるように、生き生きと語られるセリフ。公爵に買われてから、「手綱が先か、馬が先か♪」の歌と踊りが終わるまでの一連のシーン、回想も明るく生き生きとして、小山さんに何とも言えない素敵な愛嬌があるんですよね。
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by lily63 | 2011-12-01 01:05 | 演劇

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