感想『ジミー、野を駆ける伝説』(ネタバレあり)   

『ジミー、野を駆ける伝説』を今日、シネ・リーブル梅田で観た。

saebouさんのレビューを読んで、おもしろそうだと思って行ってきた。

結末は意外に重くない結末になっているのだが、途中がとにかく怖かった。




アメリカから故郷であるアイルランドの村に帰ってきたコミュニストのジミーは、村の仲間たちと共に「ホール」(公民館のような場所)を再建し、かつてのように村人が集まって、音楽やダンスを楽しんだり、美術や文学を学んだり、ボクシングを習ったり(「偉い先生」を外から呼んでくるのでなく、村の誰かが皆に教える、という形をとっている)、いろんな年齢層の人たちが楽しみ、学ぶ場を提供する活動をしていた。カトリックの神父をはじめ、彼らの活動を快く思わない人達は、「ホール」で行われていた自由で多彩な文化・教育活動に対する締め付けを強めて弾圧、最終的にジミーは国外追放となる。

観ている途中、「今はわりとみんな平和に笑ってるけど、この後、悲劇的な展開がいつ急に来るの?!いつ来るの?!」という不安感と、カトリックのシェリダン神父をはじめとする弾圧側が、人の自由な心、自由な活動を締め付けてくる力の強さが相乗して、とても怖かった。

おもしろいと思ったのは、シェリダン神父。神父たる自分よりも村の若者に人気があり、信頼されて影響力あるジミーを敵視していて、ある時、若い神父(=アンドリュー・スコットさん)と話している最中に、自分も資本論や蓄音機を手に入れようと思ってる、ということをぼそっと言う場面が出てくる。これは「敵」のジミーを研究するために、「敵」の思想や文化(ジャズ)を研究したいとかいうわけでなく、大きな「力」に引き寄せられ、それと同化したいという心理ではないか、と思った。資本論もジャズも新しい外から来た思想・文化で、若い人の心を捉える強い力を持っている。シェリダン神父は、権威ぶっているが人望も才能・学識も大してないので、だからこそ、「力」を持つもの(新しい思想や文化だったり、ジミーというスター性ある人だったり、とにかく人の心に強い影響力を持つもの)に近付いていきたい、反発しながらも内心どこかで引かれてしまうという心理ではないかな、と思った。最後、ジミーが引き立てられていくのを見ながら、神父さんは「彼のほうが(極右のあんたらよりという意味?)良識も勇気も上だ」と言ったりしてて、「えーっ?あんた、それ、どの口が言うんや?」と思いましたが、とにかく一番メーンの敵役であるシェリダン神父、話が進むにつれ目が離せませんでした。

あと、ジミーのお母さんですね。日本でこの手の話をやると、もっと「無学だがひたすら息子を愛する老母」になりそうだけど、この老母は、神父がやってきて、ジミーはずっとこの村に住むつもりなのかとか言われると、いやそれは(あんたにとやかく言われることじゃない)本人が決めることでしょ、って堂々と返したり、ジミーを追って家に来た警官に、「あなた(=ジミー母)が学校に持って来てくれた本のこと、覚えています。「宝島」、大好きだった」(はっきり覚えてない、正確じゃないけど)と言わせたり、その場にいた別の警官は別の本の名前を挙げてたりで、このお母さん、それ以上説明されてないが、移動子ども文庫みたいなものを個人でやっていたのか。「知」に価値があるとこの母は思って、本に囲まれているわけではない村の子ども達に本を届ける(=知的な学習を支援する)ことをやっていたようだ。母親も、実はジミーと同じようなことをしてたのだと、ここでちらっと示されたことが、ラストの若者達のセリフで一本につながって、地域の子どもや若者が教育や文化を享受できるように支援する活動は、一代限りで終わってしまうものでなく、ある世代から次の世代へ、さらに次の世代へと引き継がれていくものだ、ということも言っていたと思う。

ラストは意外に明るくて、途中どんだけ弾圧されても、生活の中で教育や文化を自由に享受することを奪うことは本当にはできない。知や文化を享受する楽しさは、それを体験した者達によって次の世代に受け継がれていく。楽しむこと、学ぶこと、またそのことの素晴らしさを次の世代に渡していくこと、こそが私達持たざる者の力の源泉だという、すっきりする終わり方だった。アイルランドの音楽、ダンスが素敵。
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by lily63 | 2015-02-11 23:10 | 映画・海外ドラマ | Comments(0)

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