2009年劇団俳優座『村岡伊平治伝』第二次感想   

以下は、第1次感想を1月12日にUPしてから今まで考えてきたことのうち一部を文章化したものです。ほかにもまだ書きたいことは幾つかあるのですが、エネルギー切れとなってしまいました。最後のほうは完全に支離滅裂、申し訳ありません。引っ込めるかもわかりませんが、とりあえずWEB上に上げて、もう少し考えてみます。

●第2次感想―『村岡伊平伝』あれこれ




[第2次感想その1、女優さんについて]
さすが俳優座さんのアンサンブル、皆さん素晴らしく、贅沢なものを観せていただいたと思い出します。さすがだわ~すごいわ~と圧倒された河野さん、川井さん、河内さんが心に残っていますが、ここでは、女優さん、井上薫さんと佐藤あかりさんについて書いておきます。

おしおちゃんが床屋を訪れたとき、伊平治は彼女が昔の知り合いであることに最初は気づかない。無理もないね、と思って去る後ろ姿。自分の好きだった人が、変わり果てた自分の姿に自分と気づいてくれない、女にとってこんな悲しいことはない。けれど、泣き崩れることはしない。私の席は、端っこから3列目だったので、このときに、井上さんの表情は、私はちょうど真後ろから見ることになるから、後ろ姿しか見えない、お顔は見えないのだ。 それなのに、立っておられる後ろ姿に、言葉に出さない悲しみと伊平治への愛情と、運命に耐えて、けなげに生きてきた、島原を出てから今までの時間の経過が見える。女の気持ちが見える。顔が見えなくても、セリフは言葉少なでも、気持ちが後ろ姿ににじんでいる。ここが本当に印象的で心に残りました。井上さん、いつも姿がきりっとしてらっしゃるんですよね。あんたは男なんやから、そんなヤケにならずに、立派に生きてと、伊平治を叱り飛ばしたところもよかったです。 愛の深さと、苦しい運命を受け入れて生きてきた人の毅然とした雰囲気と、心の底の少女のような可愛らしさを出されて、素晴らしかったです。

佐藤あかりさんは、あんたら恩知らず!と言って、村岡さん、自分達を売り飛ばしてくれと、啖呵を切るところがよかったです。これまた、私の席からは、伊平治に向かって手をついているあかりさんのお顔の表情がほとんど見えません。見えませんが、座って手を突いた後ろ姿に、やっぱり、底辺に生きる女の心意気が見える。心の美しさが輝いてました。どうせもう自分達はこの先幸せになれることはない、どこまで落ちてももう一緒、自分が一番損をしても、伊平治から受けた恩を返そうという気持ち。損得抜きどころか、一番損な役を自分から進んで引き受ける心根。

オッペケペ節の踊りを踊る場面がありますが、群舞で人が入り乱れていても、舞台のどこにおられても、あかりさんの肩先、手先にす~っと目が行きます。あれはどういうのですかね、偉そうな言い方しますが、今回の出演者さんの中で、あかりさんだけが空気が江戸の空気をどこか持ってらっしゃるんですね。そう思うんです。すごいものですね。

お顔が見えなくても、後ろ姿がその役のその人そのものになっている、お二人とも素晴らしいなあと、いつも思い返しているところです。

[第2次感想その2、悪人ということ]
3幕から4幕へ、どんどん小山伊平治はかっこよく変貌していきます。 その男ぶり、冷酷な横顔に、1幕の純朴な青年の面影はもうない。

私はそのかっこよさと、幕切れの伊藤博文に直訴する行動以後が、うまくつながらない気がした。 4幕の伊平治の横顔のかっこよさ。あれは、食い詰めて幸せを求めて外地へ出て行った一人の日本人の男ではもはやなくて、香港映画のマフィアの親分のようであり(国籍を超越してるというかな)、「国家」という制度からも権力からも今や完全に独立し、精神的に自立して一人で生きてる人のように見え、そこでは、伊藤に直訴する&「陛下」にすがる内面の必然性が今のこの人(伊平治)に本当にあるのか、もうそういう必要は全くなくなってしまっている人のように、見えたのだ。

『誰だ!…誰か、そこにおっとか…!!』
以後の部分の悲痛さは、今も胸にあって村岡伊平治伝について考えるたびに蘇ってくるが、小山さんのあの場の演技が本当に本物で、上手いのでなおのこと、私はどうも、伊藤博文が来る前の伊平治のクールな横顔(確かに彼=伊平治の表情の奥に深い屈託は見えるのだが、むしろその屈託に私は、いやおうなしに時代を超越させられ、天皇の赤子という所から抜け出さざるを得なかった人の心を感じる)と、幕切れの場面がつながらない。上手いだけに、本当に悲痛で際立って鮮やかなだけに、あの場面だけ、ちょっと取って付けたみたいな印象が残るのだ。

飾られていた御真影がぱっと引かれて、見えなくなる。 あの鮮やかさと怖さ。見えなくなる。見えないというのは、見えてないだけで本当はあるのか、そうじゃなく、そこに見えていたはずものはもともと何もなかった。中身は空っぽの、空虚なものが支配を日本国の隅々まで行き渡らせていたか。支配という以上、中身は詰まっていたはずで、全く空虚な存在が支配をする、ということは本当はあり得ないはずなのだが……。いろいろなことが示唆されており、あの場面は「こっわ~!!」と、これまた思ったところで、おもしろかった。

が、それにしても、何でとってつけた感が幕切れの部分全体に残るのは何故だろう。

少し戻るが、上でこのように書いている。
「(前略)ところが、現代のこの「自己責任社会」で、「踏まれても踏まれても立ち上がれ」ということは、「苦しくても生きていけ。立ち上がれなかったのは、その人がだめだから。弱いから。はい、さようなら」という、強者の論理にあっさりすりかわってしまう可能性がなきにしもあらずではないか。小山さんはそういう意味でおっしゃったのでは全くないんだけれど、「草魂」を現代の文脈の中に置いたときにどうなるか、という意味で私は最初に拝読したときそう思いました。
草が焼き払われても、二度と生えられなくても、いいじゃないか。五分の魂は誰にもある。どんな境涯でも、その人が1本の草として生きた輝きは、二度と生えてこなくても、消えることはない。誰も思い出してくれる人がいないような場合だって、やっぱり消えないことに変わりない。「もう一度生えて来い、立ち上がって来い」ということが、ものすごく酷な場合ってあるでしょう。泥道に倒れ伏して、そのままそこで死んだら、だめですか。」

まあこれは、観劇前に読んだ小山さんのブログの「草魂」という言葉に反抗(笑)したのであって、実際の芝居はまた違っていた。悲惨な境遇で生きている民衆のエネルギーを自然に描いて、溌剌としたものであり、そこではもちろん、このようにエネルギッシュに生きていかなければ駄目である、などとは、そんなこと、あの演出、あの舞台は言われていない。 実際、暗い明るいとか、悲惨安穏とか言うけれど、どうなのか。我が祖父母の時代の話を思い出しても、現代の目から客観的に見ればほんとに悲惨な状況で暮らしていても、たくましく明るく生きていて、それはそうでなければとても生き抜けないから、家族の命も自分の命も守れないから、皆そうしていた。優しく助け合って。

如何に支配する側の力が強大でも、そのように民衆は優しく力を合わせて実際にエネルギッシュに生きてきていた、ということを、改めて思い起こさせる舞台になっていた。それは本物だった。

なのに、幕切れの部分に、何がひっかかるかのは何故か。

今回の舞台では、伊平治を、善人の側に描きすぎたのではないかなあと思う。4幕は、冷酷さはあると思うのですが、かっこよすぎる、水も滴るいい男な印象なのです。それは国から自立してしまった人みたいに見える。

弱さは出てると思うのですが、ずるがしこさはあんまり感じない。もう少し悪どさ、狡猾さ、民衆の側に立たなさ(民衆の出身だからこそ、民衆に対して恐ろしく冷酷とかですね)、心の奥の奥のそのまた奥のまた奥に天津床屋時代の純情な心を実は残してはいるんだけれども、でももう完全に悪人となっている伊平治。

反面の弱さ、脆さがふと見える瞬間があるみたいな、そういう方向もあったはずで、この戯曲の村岡伊平治という男を描くのに、ほんとにほんとにこういう、ささやかな幸せを求めた民衆の一人、一人の善き人としての伊平治として首尾一貫させる(首尾一貫していたというのが私の解釈です。あくまでも心の奥は善人の心を持ち続けていて、ラストのあの部分も善人として叫んでいる、そういう演じ方だと受けとめました。善人が成熟し、変貌を遂げ悪事に手を染めつつも、元の心は失われてはいない)、村岡伊平治それでほんとにいいのか、もっと悪人性を堂々と押し出す方向もあったのでは?

日本の芸能にも文学にも、悪人を魅力的な存在として、むしろ聖なる存在としてヴィヴィッドに描いてきた伝統はあるので、その線上では、悪人となった伊平治、悪人であるからこその魅力と発見(観客がその人を通して何か大切な、今まで言われていなかったかもしれないことを発見するということ)を、もっと押し出してほしかった。

全体として、どの人も善良な民衆の一人であるとする位置づけで、そういう演出ですよね、他の人はそれでいいけれど、伊平治に関してはどうなのか。4幕で、純朴な青年がかくも変貌した。その伊平治の姿が冷酷な表情も含めて余りにもかっこよくて成熟しており、国家が内面を支配するというところからもはや完全に自立してしまった人物に見え、自由で自立したパーフェクトな近代人に見える。別に何に頼らなくても自分の才覚と築いた財力でこれから先何があってもどこで何しても生きていけるんじゃないの?というように見える。伊藤博文に直訴する必要も、陛下と呼び掛ける内面の必然性もない人のように見える。だから、うまくつながらない感が残るように解釈しています。

善人がその志を挫折させられながら、成熟した姿ではなく、本当の悪人性、どこかで踏み越えて完全に悪の側に行った、悪人性をもっと打ち出してもらって、しかし悪人だからこそ、悪人としての(特に根っからの悪人ではなく、善き人が変貌した悪人の)脆さがあり、それが直訴、「陛下」に呼びかけることにつながる。時代の流れ、時代の精神(この場合は、国家主義的流れ、民衆の内面支配を強化していく方向)からどうしても完全には自由であり得ない民衆のあり方をどう考えるかという問題につながっていくのでないのか。そこら辺の焦点が、微妙に違うのでは?
悪人として立つことを選ばれず、観客の口に受け入れやすいように、善人の側を見せる伊平治に進んでいかれたようにも思われる。小山伊平治の横顔に悪の翳りがなかったとは見ていません。でも何度も言うけれど、かっこよすぎるんだなあ。演劇だけが描くことのできる悪人の美、生き生きとした悪人の魅力、というのは、もう少し違うものではないか。微妙にひっかかるんですよ、余りにもかっこいいというそのことが。


でも本当は、もしかしてそれ以前に、「日本の近代の支配ということについて考える」ことが、この戯曲が発表された当時と違い、観客にとってもうお互い共有できる自分の精神的に切実な問題では多分なくなりつつあるのではないか(切実な問題として持っている人は少数派になっているのではという意味)と、その点についてもいろいろ思いめぐらしているところです。

以上です。
安川さんの演出、好きです。本当にどの瞬間もきらきら輝いて、美しいエネルギーの流れに満ちた芝居でした。同じメンバーで、どこかで再演していただけることを願っています。ありがとうございました。
[PR]

by lily63 | 2009-07-29 11:17 | 演劇 | Comments(0)

<< 2009年劇団俳優座『村岡伊平... 2009年劇団俳優座『村岡伊平... >>