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2012年に行った展覧会
2012年に行った展覧会
*この記事はUP日付を変えて、時々更新します。

●特別展「ジョルジョ・ヴァザーリのウフィツィ:建築とその表現」
1月8日(日)京都大学総合博物館
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/modules/special/content0026.html

● 「草間彌生 永遠の永遠の永遠」
1月9日(月)国立国際美術館(大阪・中之島)
http://www.nmao.go.jp/exhibition/index.html
# by lily63 | 2012-01-22 14:23 | 展覧会 | Comments(0)
2011年に行った展覧会
2011年に行った展覧会
*この記事はUP日付を変えて、時々更新します。

●「ルーシー・リー展」
2月5日(土)大阪市立東洋陶磁美術館

● 「筆墨精神―中国書画の世界―」
2月12日(土)京都国立博物館

●「何必館コレクション 近代芸術家の書」
4月16日(土)何必館・京都現代美術館(京都・四条)

●「法然展」
4月29日(金)京都国立博物館

●「パウル・クレー展―おわらないアトリエ」
4月29日(金)京都国立近代美術館

●「鵬雲斎千玄室の茶」
5月21日(土)茶道資料館(京都・堀川寺ノ内)
あわせて、今日庵文庫も見学。

● 「楽焼のルーツは、なんと!カラフルな中国の焼き物」
7月16日(土)楽美術館(京都・堀川中立売)

●「アンリ・サラ展」&「世界制作の方法」&「中之島コレクションズ」
12月9日(金)国立国際美術館(大阪・中之島)
# by lily63 | 2012-01-22 14:14 | 展覧会 | Comments(0)
棒鱈で検索して来てくださっている方へ
ここに書いている、私の入れた醤油の分量は、多すぎるかもしれません。大匙10杯も入れてるみたいですが。
http://lily63.exblog.jp/4331694/
少し辛めに仕上がっていたような記憶があります。もう少し、お醤油減らした方がいいのかも。こういう、冷めた状態でいただく料理の味つけは難しいですね。棒鱈を自分で炊いたのは、この記事をアップした時だけ、後にも先にも1回だけで、以来やってないので、もう少し薄味で作ってみたことがなく、参考にならず済みません。
# by lily63 | 2011-12-24 22:07 | Comments(0)
演劇雑誌『テアトロ』2012年1月号(12月13日発売号)
『テアトロ』2012年1月号(本日12月13日発売の最新号)に、俳優座11月公演『ある馬の物語』の舞台写真(ホルストメール=小山力也さん)と劇評(七字英輔氏による)が載っています。

舞台写真、「この場面も好きだなあー!」という1枚で胸が締め付けられ、そうして、ちょっと甘やかな気持ちにも。おそらくたくさん撮られたであろうお写真の中からこの選択、すごくいいですね。

七字英輔氏による劇評、以下、一部引用します。
「(前略)その意味で、往時の舞台を知らない新鋭演出家・眞鍋と、今や俳優座を背負う存在となった中堅俳優・小山力也がタッグを組んだ舞台は、ロシア演劇から多くの滋養を受けてきた劇団の、本家への挑戦といってもいい。(後略)」
(リリー注)「往時の舞台を知らない新鋭演出家」の「往時の舞台」とは、七字氏の劇評中、上で引用した直前の部分で書かれているレニングラード・ボリショイドラマ劇場が1983年と88年の2度にわたる来日公演でやった『ある馬の物語』(ロゾーフスキー脚色、トフストノーゴフ演出、ホルストメール役=レーベジェフ)のことを指す。

さっきから、『テアトロ』の舞台写真と劇評を繰り返し眺め眺めしています。「今や俳優座を背負う存在となった中堅俳優・小山力也」、いやそれは、ファンとしてず~っとそう思ってきてますよね。ずっとそう思ってきましたが、こうして劇評の中でテキストの中で拝読しますと、本当に嬉しいものですね。

上で引用した箇所は七字さんの『ある馬』劇評全文の大体真ん中あたりなのですが、最後の部分でも小山さんを絶賛しておられます。
# by lily63 | 2011-12-13 19:50 | 演劇 | Comments(0)
むつかしい
『ある馬の物語』を観終えて。

あの場面、あの場面、全部もう一回観たいなあ。

今回観劇して、「私、演劇って本当は苦手かもしれないなあ」ということを思っている。

生のものなので、観劇し終わってからいろいろ反芻することはできても(そういう意味で1本の舞台に対する鑑賞はその劇場の客席に座っていたときだけのものでなく一生続いていくものだと思うが)、やっぱりそのときに自分がどう観たかというのが大きので、巻き戻せない(DVDのように)、同じ場面を何度も読み直せない(本のように)、あちらからこちらから角度を変え自分の立ち位置を変えてじっくり時間をかけて見る(展覧会で美術を鑑賞するように)、ということができない。「繰り返しじっくり」「長い時間を掛けて同じ作品を味わう」ということができない。その場で、その舞台の時間の流れにこちらが気持ちを合わせて身をゆだねて観ていかないといけない。なので、「一回勝負」の緊張がいつも小山さんの舞台を拝見するときにあって、それは2回観ても3回観てもやっぱり一緒で、今日のこのステージを観られるのは今日の今の1回だけというのは同じ。

総合芸術なので、目で見る(俳優さんだけでなく、美術も照明も舞台に見えているもの全部、そして見えないものも)、耳で聞く(セリフだけじゃなく、音楽も効果音も全部)、身体全体で感じる、頭でいろいろ考える、目の前で舞台がどんどん展開していくのについて行きながら、こういう活動を同時に一気にやることが苦手だ。

たとえば、千秋楽の日は、とても照明の美しさに心を奪われた。ホルストメールとビヤゾブーリハの幸せな時間。「ああ、この照明すごい~」と思うと、私はそこで心が照明のほうに目を奪われて、その後の場面も光の具合が変わっていくことに目が行き、またそこで「これ、すごいわ~、照明ってこういう魔法みたいな繊細なものなんだ!」と頭の中でくるくる考えが駆け巡って、その間しばらく、舞台の役者さんの演技そのものへの集中がおろそかになってしまうのだ。これ、どの場面でも、「すごいな~」と思った場面ほど、「わあ、すごいなあ~!」とか、「今の表情の意味をどう読めばいいんだろう!」とか、「ああ、これって、自分の身に当てはめたらそういうことだなあ」とか、自分の心の中に次々起こってくる意識のほうに意識が行って、自分の思考や感慨の中に瞬間、沈潜してしまって、その間は舞台に意識が向いてないってことが時々ある。素晴らしい舞台ほどそうなる。

皆さん、どうして、一度に観ながら聞きながら思いながら感じながらを同時に一気にやって、しかもそれを相手(舞台)の時間進行に合わせて、巻き戻しもページをめくって読み直しもしないでできはるのか、「私、そんな同時に一遍にいろんなことでけへん、しかもそれ相手の速さに合わせながら」というのが今ちょっと思っている正直なところ。

難しいこと考えずに何も考えずに楽しめばいいじゃないかというのは、私は取らない。「よかったねー!楽しかったねー!」だけのことなら家でお気に入りのDVDを見ればいい。生の演劇というものが、ああいった生身の俳優さん、生身のスタッフさんの手で目の前で展開されその迫力に圧倒される、そういう体験すればするほど、それぞれの場面の目に見えるもの、耳に聞こえるもの、見えにくいもの、聞こえにくいもの、見えないもの、聞こえないものをできるだけ演出の意図、上演の意図を読み取ろうとしながら「今の自分の非力な力で、自分としてはできるだけ十分な鑑賞」をしたいといつも思っている。

あらゆる表現が表に出されるとき、受け手・鑑賞者(同時代の目の前の観客であれ後代の誰かであれ)の「観る眼」を信頼して、ゆだねてもらったということだと思う。解釈はあなたにゆだねると。ゆだねるとはもちろん、ゆだねるなので、「自分たちの意図の通りにあなたは受け止めてくれる、くれないと困る」ということではない。あなたがどのような解釈をするかわからないけれども、それでもあなたにゆだねますということ。あなたはゆだねることができる人だと信頼してもらっている。この「ゆだねる」「ゆだねられた」というところが、創作物を世に問う&それを鑑賞することの一番根本にあり、というか、そもそも受け手にゆだねる覚悟がなかったら表現を公開公表するなど恐ろしくてできない。

と考えると、信頼してゆだねられた以上、それはすごく重いことで、だから、この意味は何だろう、この意図は何だろう、この構造はどういうことだろう、踏まえられている文脈は何だろうと考えながら観て解釈・鑑賞する、それをしないわけにはいかないのだ。

生の演劇の中身って本当に複雑で奥行きがあって、自分の鑑賞力を総動員しても、全然追いつかない。感想を言葉で書けば書くほど、私ものすごく誤読してる可能性あるなあ、ああもう一度見直したいと思っても、それはできず、この見直せない、一発勝負で観ないといけないことの緊張が苦手かも。もちろん鑑賞の一発勝負こそライブの魅力なんだが。同じライブでも音楽だと、ステージ上の奏者を観るのは観るけど、「音」に自分のエネルギーを集中できる。古典芸能なら、そのジャンルごとの表現の枠組みがあって、演目も登場人物の性格もある程度決まっていて、今までにその演目を観たことあるか観たことなくても知っているとかの上に観るので、観ると聴くを同時にやってもそれほど緊張しない。比べると、現代演劇は難しいなと思う。

汲めども尽きぬだわなあ。
# by lily63 | 2011-12-07 23:02 | 演劇 | Comments(0)
俳優座『ある馬の物語』感想(その1/3)
俳優座11月本公演『ある馬の物語』感想。やっと書けました。あまり推敲せず書き散らしただけです。3分割して、上から1/3、2/33/3の順にアップ。3/3の次に20日に拝見したアフタートークの感想記事を上げています。誤字は直しますが、全体にはもうそんなに書き換えたりしません。「手綱が先か馬が先か」の歌を楽譜に起こそうとずっと歌ってるのですが、どうも、これで大体合ってると思うけど細かいところが違うよなって感じで、一度聞いて全部覚えていられる耳があればいいのですけどねえ。「クヅネーツキイの人ごみへ♪♪」

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『ある馬の物語』
拝見できて本当に幸せでした。2回上京して、全部で3回観たのですが、小山さんの出演されている舞台を拝見するとき、自分の予想を超えて、世界がとても大きくて、奥行き深く複雑で、いろんなものがいっぱい詰まってるので、その世界の大きさに比して、自分の鑑賞の心の器の小ささをいつも実感させられます。私は今でも思ってますよ。あの場面もう一度観たいなあ、あれは本当はどういう意味だったのかなあ、あそこの表情をもう一度観たい、等々、何度観ても、もう一度観てみたいと思わせる。汲めども尽きぬですね。

いやあ、すごいですね!すごかったですね!というのが第一声。劇場で直接お合いしたり、メールのやり取りをした、小山さんのファンの方と、最初まずそのことを言い合った。あの動き、あの声、あの語り、あのセリフ、あの歌、あの表情、すっとした立ち姿、どれも好きだなあ。ああ、これこそ小山さんだ、俳優小山力也!小山さんのファンとして拝見できた、そこに大きな喜びがありました。

舞台は総合芸術と実感。まさに小山さんがパンフで書かれていた「マナベ・ジャパン」の力を結集して、というのが伝わってきた。眞鍋さんの演出は細やか。ダンスなどの見た目にエネルギー溢れ、躍動するものの向こうにあるものがとても繊細だ。観客を精神的にぎりぎりと追い詰めたりしない、観客にとても優しい芝居だなーと思いました。いつまでもずっとこのまま観ていたい、聞いていたい、この世界の中にいたいと思わせる。

音楽、歌、生の楽器、生き生きとした踊り、美術、照明、どれも素敵だったけど、千秋楽で特に、照明(榊美香さん)に心を奪われた。照明って、ただ明るく照らすということじゃない(当たり前なんですが、今まであんまり意識してなかったんです、済みません!)のやわーと。この芝居、場面がどんどんスピーディーに展開するが、どの場面を取っても一つとして前のシーンと同じ照明でなく、場面ごとに違う照明の色、質感が人物の心情、その場の持つ意味にぴったりと寄り添って、それを見詰めている観客の心と舞台上の出来事をゆるやかにつないでくれる。こちらの気持ちが舞台上の出来事にす~っと寄り添っていけるような働きを照明がしている。観客と舞台と両方を包み込んだやわらかな照明、つなぐ、包む働き。書いていたらもう一回観たくなりますねー。

で、小山さんですね。何から書けばいいか。

私が吹き替えでも大好きな小山さんの回想語り!あのホルストメールが語るというのが好きですねー。回想って、ドラマティックですよねえ。何で人は回想して語るのか。失ったときを語ってももう何をどうしようもないのに、でも語り出さずにはいられない。過去を記述して、もう一度失われた時代を再現せずにはいられない。そこには、回想される一連の出来事に向けられる今の自分の思いがあり、自分が今まさに語っている聞き手に対する「あなた達にどうしても聞いてほしい」という思いがある。自分があり、語りかける相手があり、過去の自分と自分がかかわった人たちがあり、道を辿り来て今この場所にいる現在の自分があり、そこに様々な思いが交錯して、回想語りが始まる。こういうドラマティックさがとても力強い。

2回目の観劇で、特に後半ですね、ホルストメールの「~しました」「~するのです」とかを聞きながら、ふと自分が現代の劇場にいるんじゃなくて、電気もなかった頃、暗い闇に包まれた広場で膝をかかえてじっと、ホルストメールが語るおはなしに聞き入っているような、大人でなく子どもの自分として、そんな錯覚に陥った。暗い闇に包まれた野外で、隣の誰かと身を寄せ合って、土の上に座って、闇の中にいる語り手(ホルストメール)の語るお話を聞く、小さな子どもの自分。舞台の高い天井をちらっと見上げたとき、天井が抜けて暗い夜空のようにほんの一瞬だけ見えた。

過去の出来事を語り、その出来事を再現する所作(舞踊なども含め)が伴って、音楽もついて、それを土の上に座って周りを囲んで熱中して観る。物語と芸能の初期の形って、ああ、こういうものだったはずだなあと客席で体で感じることができた。古い時代の物語と芸能の享受ってこういう感じだったかもしれないなあと、とてもはっとして面白かった。芸術は何の役に立つか、という問いなどそもそもそこで立てられることが初めからない。同じ物語を闇の中で一緒に聞いた人が明日には飢え死にか凍死かしてるかもしれない。ロシアの大地の上で。いずれ自分も同じ運命。それでも、わずかな明かりの中で人は車座になって、物語を聞いて、語って、演じて、踊って、歌って生きてきた。物を語り、それを聞き、非日常の物語世界にいっとき熱中する。そこには理由も実益もない。ただ、「どうしてもこれを語らずにはいられない」「どうしても引き付けられてずっと聞いていたい」という気持ちがあるだけ。明日、死ぬかもわからなくても。そういうことがずっと世界中で古代から行われ続けてきて今の世界があり、これからもあるだろう。わずかな明かりの中でぼんやり浮かぶ語り手の顔、土の上に座って見つめ聞いている聴衆の心にはっきりと見えている物語の世界。それは「息抜き」でも「癒し」でもないのだ。人間の世界が滅びなかった、今まで持続してきたのは、物語や芸能が人と共にいつもあったから。というふうなことを目の前の舞台を観ながら、電気などもちろんない古い時代のことを思って、「ああ、そういうことかもなー!」と瞬間的に考えた。まあ私の妄想ですけどもね。

「失われた過去をどうしても回想して物語らずにいられない」ところに、物語の起源があるのだろう。この時が永遠に次々と失われゆくことのつらさ。過去をやり直せないつらさ。いくら語っても元の始めまで遡って生き直すことは絶対できないのに、楽しい時だってあったけど辛いことの多かった時代を語って再現しようとする。それは何だろう。時の不可逆性、不条理性への抵抗かなあ。
# by lily63 | 2011-12-01 01:07 | 演劇 | Comments(0)
俳優座『ある馬の物語』感想(その2/3)
二十歳過ぎぐらいの若いときに観ていたら、この話、辛く感じたかもしれないが、今の私には、さほど辛くは思われない。次々と起きる不条理で取り返しのつかない出来事、自分の一番大切にしているものを永遠に奪われる、差別、迫害、蔑視、一生つながれて使役される、物として扱われ強い者に屈辱を与えられる。走って走って走り続けて自分で走ってるのか走らされてるのかすらわからなくてその先に待ち受けていたものは。年老いて見えてくるもの。

こういったことは、程度の差はあっても(ホルストメールほど極端でなくても)生きていく上で経験することである。これが人が生きていくということだというのが、辛くはなく、とてもしたわしいものに感じられた。これが人が生きるということだという感覚、額縁の向こうに起きていることでなく自分のことでもあるという感覚。

泣いて客席から逃げ出したいほど辛いと感じない。人の人生とは程度の差はあれこのようなものだ、ということにとても厳かなものがある。(甘い世間知らずの私がそういうことを言えたもんではないんですけども。)眞鍋さんの演出の繊細さはもちろんあるが、余りに辛すぎて直視できないことだとは感じないのは、小山さんの、あの何とも言えない心引き付けられる愛嬌や軽やかさによるところも大きいと思う。希望を感じることができるのだ。

金属の棒が男性原理ですね。強い力、破壊する、冷たさ、残酷さ。真っ直ぐ一方向にしか進まない時間。元には戻れないんだよ、絶対にという。でも、あの棒、私はそんなにきついもの、人間をどんどん追い込んでいくようなものには感じなかったのですよ。冷たい金属なんだけど、どこなく愛嬌があったし、美しかったと思う。棒に愛嬌というのも変だけど。女性原理を担っていたのが照明ですね。やわらかく包む、つなげる、過去も現在も、朝も昼も夜も自由自在にいろんな時間を出現させる、魔法のように。一度光が消えて暗闇になっても、また元にもどることができる。また明るくなれる。

小山さんのダンスやマイムで表現された場面のことを書かないのは、あれこそもう記述不能なすばらしさ。

私は言葉人間で、かつ、どちらかというと聴覚型なんですけど、この公演ほど、プロの俳優さんの人間の生身の身体がここまですごいことができることに目を奪われたことはなかった。

とてももろく弱い人間の身体。何十年だけの限りある生、身体。そのもろくはかない身体でもって、ああいう身体表現を共同して創っていかれることこそが、人間を襲うこの世の不条理さに対する抵抗であり、意地であり、祈りであるような気がした。小山さんの何度も大きくしたたり落ちた汗。

生まれたての仔馬のとこも、殺された後、もう一度馬の生を再現するところも、ほんとに目を奪われましたよねえ。

一番好きなシーン。手綱が先か、馬が先か、で歌い踊る場面が好きです。その前の公爵、フェオファーン、ホルストメールのやりところの所からず~っと好きですねー!よどんで止まるところがどこにもない、明るい表情、明るい声で回想し、どんどん前へ前へ行くあの感じ。フェオファーンと足の高さを揃えて歩いて、スピード上げて舞台上を走る走る。ハーイ、ハーイ、ハーイ、ハーイという声が今も耳について離れない。まさに目と耳を奪われます。

幸せだった時代。千秋楽の日は、もうこれで最後と思い、次やで、次やで、来るでー!と思いながら観て、歌と踊りのあのシーンを拝見しているときが一番泣きました。「私は手綱をぴんと張り」というところも好きだったなあ。その前の「でもそれだからこそ、私は彼を愛しました。彼がハンサムで、幸福で、金持ちで、そのために誰をも愛さない、そういうところが私の気に入りました。(略)彼が冷淡で、残酷で、そして私は彼のもの、そのためにこそ私はよけい彼を愛したのです。私を打って、走らせて、それであなたのいい時代がますます幸せになるならどうぞ、そう私は思ったのです。」たたみかけるように、生き生きと語られるセリフ。公爵に買われてから、「手綱が先か、馬が先か♪」の歌と踊りが終わるまでの一連のシーン、回想も明るく生き生きとして、小山さんに何とも言えない素敵な愛嬌があるんですよね。
# by lily63 | 2011-12-01 01:05 | 演劇 | Comments(0)
俳優座『ある馬の物語』感想(その3/3)
ホルストメールの一番幸せだった時代の描写。最後には躍動する歌声。この楽しさの中に同時に悲しみがある。ホルストメールにとって既に永遠に失われた時を回想して再現しているから。輝かしかった時も何もかも、次々と過ぎて終わっていく。けれど、何だろう、いや、既に失われた時代だから悲しいのではないんだな。あのシーン、目の前であれほど生き生きした躍動に接したら、観ていて楽しくないわけがない。あれを拝見していた時の、心浮き立つ喜びは何ものにも代えがたい貴重さ。

私たちは本当は経験上知っているのだ。生き生きと躍動する喜びの時は、実は常に痛切な悲しみの感覚を底に伴っているものであると。「必ず失われてしまうものである」、だから悲しい、ではない。喜びと悲しみは同時にある。そういうものなのだ。あれを拝見していたときの涙は、もう悲しみの涙とも喜びの涙とも名づけられない何かである。新幹線の中でも「手綱が先か馬が先か」の歌がず~っと鳴りっぱなしでしたよ。

ラストのあの、顔を拭きながら、ホルストメールを演じた「俳優 小山力也」の顔になって、語るところも好きでした。何とも表現しがたい、きりっとした、ちょっと近寄りがたい厳しい表情をされてるんですよね。千秋楽の日は特に、あの辺からカーテンコールまで、涙涙。「ああ、物事はこうして終わっていく。何でも必ず終わっていく」というのがすごく寂しさとカタルシスがあった。語り終わって、「人間ほど奇妙な動物はいない」、全員の歌になり、しばらくしてから小山さんだけ先に背を向けて去っていく、あの歩み去る後ろ姿に胸が締め付けられそうになりました。で、もう一度、奥で正面を向いて、しばらくそうして立っている。死の側に立って生の側をもう一度目におさめてから、去って行く人の最期の姿のように。そうして、本当に姿が消えていきます。ああ、この芝居がもうこれで本当に終わるんだ、という寂しさ。

役者が舞台に登場して(生まれて)、最後は退場していく(死んでゆく)。この芝居は人が生まれてから死ぬまでの似姿。一人の人が最期のときにどのような思いを抱いているか、忖度などできない。舞台に登場して去るホルストメールの胸中を忖度できないように。「俳優、小山力也」としてこちらをもう一度向いて立って、しばらくそうしてから、本当に去っていくのを拝見しながら、ああ、人はこのように歩み去って行くものなのだ、と心に痛切に感じられ、涙が止まりませんでした。特に千秋楽の日は、この「終わる」ということが辛くて、小山さんが背を向けて去る直前の、まだこちらを向いて立っておられたときの最後の表情を正視できなくて、目をそらしてしまい、全体の皆さんの動きを見ていたので、立ち去る直前の表情をちゃんと記憶にとどめられなかったことが残念でなりません。

あの一連の場面は、何か抽象的なものがありました。私好きですね。小山さんの出演される芝居で、最後の小山さんのセリフ、表情、所作、姿から、ふとその芝居のテーマよりさらに上の何というか人間という存在を抽象して表現した何か、具体的個別的に生きている一人一人の生身の我々ではなく、「人間というもの」として抽象化された何か、宗教的な感覚さえ感じられる瞬間。人がこの世に生まれ出でて、それぞれの道を辿って、最後は土にかえる、このことの意味について何か抽象的なことがあらわされていたような気がするなあ。近寄りがたく、厳かな表情だった。いやあ、小山さんの自由自在ないろんな表情が観られてよかったなあ。

ベテラン、可知さんの貫録、あの雰囲気は可知さんでないと出せないですよね。好きです。60年代に20代だったら絶対可知さんのファンになってたなー。香野さんの美しさ。田中美央さんの大きな雰囲気。落ちぶれてからの公爵が好きですね。私はあれもね、「こういうものだよね」と思う。みじめでもないし、辛くもない、自然なことだと思うわけです。フェオッファーンという言い方、一生忘れませんよ。あらすじだけ読んでたら重苦しそうな話ですが、舞台で拝見したら、ちょっと笑って観られる場面も随所にあったですよね。林さんの美しさ!ひんやりした冷たさ!惚れ惚れして拝見しました。斉藤さん、蔵本さん、脇田さんのその人物としてそこにいる自然さ。馬群の皆さんの躍動。急きょ、林さんの代役で立たれた田中孝宗さんの荒削りな魅力。林さんは美しくて気まぐれで冷たい、冷たいとわかっているがどうしても引き寄せられてしまうという魅力。田中さんは、傲慢で踏みにじられそうだけど、でもついて行っちゃうかもという魅力。冷たいも傲慢ももちろん役としてですよ。お二人とも素敵でした。

さとうさんたさんがブーツのことを書いてらしたので、ブーツにも注目。皆さん、かっこよかったですよね!一つ一つ違ってて、皆さん似合ってらして、ブーツが映えてました。競馬場での女性陣の帽子もエレガントで好きでした。

公爵の皮も骨も肉も役に立たなかった、のところは、この作品の折りたたまれた奥行きが感じられるところ。以下、適当な思い付きです。トルストイの原作は一番権力を持ってる者が最後にはぎゃふんと言わされるタイプの昔話の終わり方を使いながら、自分も属していた階級を見る目、役立たずと批判的に見ている視線があるのかなと。作者トルストイがにやりと片目をつぶって笑ってみせたようなところはあるのかも。
で、ロゾーフスキイさんの手で脚色され台本化されたときには、公爵の姿にやっぱり体制とか権力というものを重ねているということはあるのかなあと。ボリショイ・ドラマ劇場で初演時(1975年3月←桜井先生の解説による)の社会的な背景に無知なので、何とも言えません。

で、今の時代にこの部分をどう読むか。私はちょっと保留してるんです。1つ今思ってることは、もうこれはこの作品そのものの読み、今回の舞台そのものに対する読みから離れますが、何の役にも立たないで土にかえる、というのが人として厳かで自然な姿で、別にそれでいいじゃないかと。何かそれで問題ありますかと。若い人が、世の中の役に立ちたい、世の人の役に立つ仕事をしたい、世の中に何かを与え、創り出したい、と思うのは至極当然のことで、自然なことで、むしろそうでなかったらあかんと思いますよ。でも、今、年とった私は、この、「役に立つ」か「役に立たない」か。「よりたくさん役に立つのはどちらか」「より一度にたくさんのものを効率よく作り出せるのはどちらのやり方のほうがいいか」、こういう発想がもう行き詰まってしまって今があるのだから、どちらにしても、お互いに役に立って本当は生きているのです。一見もう役に立たない、迷惑なだけとか人に思われるようなものであっても。人は巡り巡ってお互いさま。目に見えてはっきり見えるもの、「これこれはこういう役に立ってます」と人にクリアに主張できるものだけが役に立ってるわけでない。今の日本で「役に立つ」と言うときの、言葉の意味がものすごく狭い、狭すぎると思う。しばらくは、「役に立つ」「役に立たない」軸をちょっとどこかに置いて、物を考えないとと思っているので。この点については、これだけ、メモとして残しておきます。

生涯心に残る観劇の体験がまた増えました。ああ、これぞ小山さんだ、大きな役者、ということを実感させられた芝居。拝見できて本当に幸せでした。眞鍋さん、小山さん、ほかの俳優さん、生演奏のバンドの皆さん、スタッフさん、皆様、ありがとうございました。
# by lily63 | 2011-12-01 01:00 | 演劇 | Comments(0)
俳優座『ある馬の物語』まずアフタートークの感想
●12月1日夕方、この記事の最後にパンフのことを追記しました。

俳優座11月本公演『ある馬の物語』
まずは、アフタートークの感想から。本編感想は下書き中。後ほど(できるだけ今日中に)アップします。

続きを読む
# by lily63 | 2011-11-30 16:28 | 演劇 | Comments(0)
2011年11月俳優座本公演『ある馬の物語』詳細情報公開されました!
この記事の最初のUP日付は、2010年10月11日です。『ある馬』公演終了まで、この記事をトップに置きます。
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千秋楽、おめでとうございます!
2011年11月 俳優座本公演『ある馬の物語』


小山力也さん=主役 ホルストメール
脚色:マルク・ロゾーフスキイ/原作:レフ・トルストイ『ホルストメール』
訳:桜井郁子
演出:眞鍋卓嗣(俳優座文芸演出部)
公演期間:2011年11月14日(月)~23日(水)
会場:池袋「あうるすぽっと」
俳優座後援会前売開始:9月12日(月)
一般前売開始:9月20日(火)←当初発表の26日から変更になっています。

演出の眞鍋卓嗣さんは、俳優座の若手演出家です。とても楽しみですし、期待しています。

★情報源★
・(特設サイト←現在はこちらに情報一本化)『ある馬の物語』特設サイト
・(俳優座公式サイト内)俳優座公式サイト『ある馬の物語』公演情報ページ
・(出演決定公表)小山さん公式ブログ2010年9月10日付け記事

●当ブログ内関連記事●
・桐朋演劇科(21期)卒業公演について(2008年5月17日UP)
・桜井郁子先生の御著書3冊(2011年8月10日UP)
・俳優座『ある馬の物語』&小山力也さん雑誌・新聞掲載(2011年8月以降)記事一覧

【私のサイトで作成した小山さんの舞台関係のデータ】
●小山力也さん舞台出演作品一覧(1989年~2009年)
http://homepage2.nifty.com/haruka63/butai.html

●小山力也さん舞台観劇記(2000年~2009年)http://homepage2.nifty.com/haruka63/review08.html
2000年以降の御出演舞台をすべて(海外での公演は除く)拝見しています。

●小山力也さんプロフィール
http://homepage2.nifty.com/haruka63/profile_08.html

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★サイトで企画したお花贈り一覧(2002年~2009年)http://homepage2.nifty.com/haruka63/ohana_kikaku.html
~お花贈り企画は、2009年『村岡伊平治伝』を最後に終了しました。~

★60年代、私が生まれて初めて観た演劇
1967年俳優座『森は生きている』のこと
# by lily63 | 2011-11-23 23:59 | 演劇 | Comments(0)
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